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2020年7月15日水曜日

プロローグ |ニュートンのプリズムの分散の実験をやってみた①

ニュートンが光学の研究に着手

 アイザック・ニュートンがプリズムを使って太陽光のスペクトルを観察する実験を行ったのは1666年です。ニュートンは緻密な実験を何度も繰り返し、最初の実験から実に38年後の1704年に『Opticks 和名:光学』を発表しています。


ニュートンの肖像画と著書『Opticks(光学)』

 ニュートンは1661年にケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに給費生として入学しました。給費生は学費が免除される代わりに大学の雑務を行わなければなりませんでした。

 ニュートンは1663年頃から数学、力学、光学などの研究を始め、1665年に学位を取得しています。このとき既に万有引力の発見のきっかけとなるアイデアに気がついていたといいます。

思考実験の科学 1-09. 思考実験「重力から万有引力へ」

(ニュートンはリンゴが落ちるのを見て何に気が付いた?)

 ニュートンを指導していたケンブリッジ大学の数学関連分野の教授職であるルーカス教授のアイザック・バローはニュートンを高く評価していました。バローは幾何学と光学を研究テーマとしており、ニュートンもバローの研究に寄与していました。

 この頃、ロンドンではペスト菌が大流行しており、ケンブリッジ大学は1665年8月に閉鎖に追い込まれました。ニュートンも長期休業を余儀なくされましたが、このことによって大学の雑務から開放され、自分のやりたいことに時間を割くことができることになりました。

 ニュートンは故郷リンカンシャー州ウールスソープに疎開し、大学に戻る18ヶ月の間、兼ねてから温めていた流率法(微分積分学)・プリズム分光学・万有引力の研究などに取り組みました。この期間はニュートンの「驚異の諸年」もしくは「創造的休暇」と呼ばれています。

 疎開によって故郷で充実した期間を過ごした後、1667年4月に大学に戻ったニュートンは大学のフェローとなり、1669年に若干26歳にして恩師のバローにポストを譲られルーカス教授に就任しました。


アイザック・バローと著書『Lectiones Opticae(1669年)』

 ニュートンのルーカス教授就任後の最初の功績は、レンズによる像の色ずれ(色収差)を改善するために鏡を作った反射式望遠鏡の発明でした。

 王位学会(王位教会、the Royal Society of London)はこの反射式望遠鏡に注目し、1671年にニュートンに反射式望遠鏡を提出するよう要求しました。ニュートンは反射式望遠鏡の改良型を作成し、多くの専門家がこの実績を賞賛しました。このことが、きっかけでニュートンは1672年に王位学会の会員となりました。

ニュートンのプリズムの分散の実験

 ニュートンが1666年にプリズムの分散の実験を行ったことは、ニュートンが1672年2月6日付けで王位学会に送った手紙『New Theory About Light and Colour(光と色の関する新理論)』に記述されています。この手紙は、反射色望遠鏡の発明のきっかけになった経緯として、プリズムによる光の分散の実験を報告したもののようですが、王位学会の会員となったニュートンがさっそく自らの光学理論を発表したかったからとも考えられています。

 この手紙は王位学会の会報『フィロソフィカル・トランザクションズ (The Philosophical Transactions of the Royal Society、哲学紀要)』に掲載されました。このときニュートンは28才、この手紙がニュートンの最初の論文となりました。

New Theory About Light and Colour by Issac Newton 1672
WIKISOURCE New Theory About Light and Colour

 この手紙の中で、ニュートンは、プリズムによる太陽光の分散、プリズムで取り出した単色光はそれ以上は分散できないこと、太陽光をプリズムで分散した光を全て混合すると元の白色光に戻ること、複数の単色光を混ぜ合わせると中間色を作ることができることなどを報告しています。


プリズムによる光の分散とニュートンの実験(レンズのキホン

 この実験と考察については、1704年の『Opticks(光学)』に詳述されています。この論文の内容はニュートンが1666年に行ったプリズムの実験をはじめ、ニュートンがルーカス教授に就任した1669年から1672年頃の講義をまとめたものです。ニュートンはなるべく早く光学の論文をまとめたかったようですが、論文を発表するまでに1666年の実験から38年、1672年から32年を要しています。

ニュートンの論文の発表が遅れた理由

 実は、当時の王位学会の事務局長をしていたロバート・フックが、1672年のニュートンの論文に対して強硬に反論しています。ニュートンの報告した内容は自分が既に報告していたことであり、ニュートンの光学理論は基本的に間違っていると酷評したのです。

 ロバート・フックは光学分野で複式顕微鏡の発明をしており、1665年の著書『Micrographia(顕微鏡図譜、ミクログラフィア)』に顕微鏡で拡大して観察した様々なもののスケッチを発表しています。

 フックはこの著書で雲母の薄膜が色づく観察結果を報告し、これは光の波の干渉によるものと考えていました。ニュートンは1672年の論文で光は粒子であるかのように説明しており、ここからニュートンとフックによる光の粒子説と波動説の論争が始まりました。

 1672年の時点でニュートンは29歳、フックは37歳でした。フックは王位学会の事務局長で絶大な権力をもっていました。ニュートンは自分の光学の理論が認められなかったことで、以降は光学の研究を慎重に進めるようになったと伝えられています。

 やがてニュートンは万有引力の発見などの業績により、1703年に王位学会の会長に就任します。そして、1704年に念願の著書『Opticks(光学)』を発表したのです。

 一方のロバート・フックは1703年3月に死去しています。それ以降、フックの業績は目立たなくなりましたが、ニュートンがフックの業績を消し去ったからと伝えられています。

 さて、ニュートンが1672年に発表した論文のプリズムの実験と学説は1704年に『Opticks』が出版された後でさえも、実験の再現が難しく広く受入れらなかったようです。

 この実験を再現したのはニュートン自身ではなく、王位学会の実験主任だったジョン・デサグリエでした。デサグリエはニュートンの実験の再現が難しい部分を改良し、見事に実験を再現しました。 この結果は1716 年の『フィロソフィカル・トラ ンザクションズ』に掲載されました。

 今回の記事では、ニュートンが1672年に発表したプリズムの分散の実験の一部を行った結果を数回に分けて報告します。なお、ニュートンやデサグリエが実際に実施した実験を再現するものではなく、現在の実験道具を用いて行ったものです。

プロローグ |ニュートンのプリズムの分散の実験をやってみた①

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